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大阪の豪商・淀屋常安

大阪の中心にある橋「淀屋橋」でも知られる「淀屋」ですが、歴史上の存在を知っている人は少ないと思われます。

淀屋 – Wikipedia

淀屋(よどや)とは、江戸時代の大坂で繁栄を極めた豪商である。全国の米相場の基準となる米市を設立し、大坂が「天下の台所」と呼ばれる商都へ発展する事に大きく寄与した。

米市以外にも様々な事業を手掛け莫大な財産を築くが、その財力が武家社会にも影響する事となった事により、幕府より闕所(財産没収)処分にされた。しかし、闕所処分に先立ち伯耆国久米郡倉吉の地に暖簾分けした店を開き、後の世代に再び元の大坂の地で再興した。幕末になり討幕運動に身を投じ、殆どの財産を自ら朝廷に献上して幕を閉じた。

淀屋を創業した岡本家によるものを前期淀屋、闕所後に牧田家により再興されたものを後期淀屋と呼ぶ。

淀屋が開拓した中之島には、かつて常安町と常安裏町(現在の中之島四丁目~六丁目)が有った。また現代も中之島に掛かる淀屋橋や常安橋にその名を残している。

 

江戸時代、米は経済の中心的な存在でした。年貢として納められた米は藩の蔵屋敷に蓄えられ、米問屋を介して現金化されました。米は諸藩の財政の根幹をなし、米価の安定は経済の安定としても重要でした。
しかし、米の価格は仲買人によって無秩序に決められ、価格は米の質や量などを正しく反映したものではなかったのです。
そこで淀屋は、米の質・量・価格の混乱を収めるため、全国の米相場の基準となる米市の設立を幕府に願い出て認められる事となりました。

淀屋は自身が拓いた中之島に米市を開き、また中之島に渡るため淀屋橋を自費で土佐堀川へ架けました。
米市に集まる米を貯蔵するため、諸藩や米商人の米を貯蔵する蔵屋敷が中之島には135棟も立ち並んでいました。また1620年代、全国の米の収穫は約2700万石有り、自家消費や年貢で消費される分を除く約500万石が市場で取引きされていました。その4割の約200万石が大坂で取引きされていたと言われています。

米市の取引きは場所を取る米を直接扱わず、米の売買が成立した証拠として手形を受け渡し、手形を受け取った者は手形と米を交換するという事が行われていました。それが次第に現物取引でなく、手形の売買に発展する事になった。

この淀屋の米市で行われた帳合米取引は世界の先物取引の起源とされています。

淀屋の米市は二代目の言當、三代目の箇斎、四代目の重當の時代に莫大な富を淀屋にもたらした。井原西鶴は「日本永代蔵」の中で淀屋の繁栄ぶりを記しています。

その後の米市は、元禄10年(1697年)に対岸に開拓された堂島新地(現在の堂島浜一丁目)に設立された堂島米市場に移された。堂島米市場では現物米を扱う正米取引のみが行われ、現物米と交換するための米切手を売買する事は禁じられていました。

享保初年(1716年)頃より始められた帳合米取引が、享保15年(1730年)8月13日、幕府より公許され世界初の公設先物取引市場堂島米相場会所となりました。

現在の金融取引市場のベースを作ったのは日本です。

・・・使われ方は大きく違うと思いますが!

庶民のことを考え作り出されて仕組みが、今では金持ちが儲かるようになったシステムに。

 

その後、淀屋は大きな力を持ち全国の大名などに貸し付けたのが銀1億貫(膨大に膨れ上がった利子によるものですが、現代の金額に換算しておよそ100兆円)にものぼったそうです。

政府はその力を封じ込めようと闕所(けっしょ)処分に。

闕所の公式な理由は「町人の分限を超え、贅沢な生活が目に余る」というもの。

闕所時に没収された財産は、金12万両、銀12万5000貫(小判に換算して約214万両)、北浜の家屋1万坪と土地2万坪、その他材木、船舶、多数の美術工芸品などという記録が有る。また諸大名へ貸し付けていた金額は銀1億貫。

こんな凄い人が日本にいたんです!

日本人が誇りに思ったり、尊敬できたりする人の情報はあまり教科書には載らないようですね~・・・。

そんなに自信をなくさせたいのでしょうか??

 

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