終戦直後の日本。焼け野原の街角で、子どもたちがアメリカ兵に向かって叫んだ言葉があります。
「ギブミーチョコレート!」
あの時代を生きた人たちを責める気には、まったくなれません。食べるものもない、明日どうなるかもわからない。そんな状況で必死に生きていた。それは純粋なサバイバルです。
でも——。
あれから80年近くが経った今、私たちは本当に「成長」したのでしょうか?
新幹線は世界最速レベルで走り、コンビニは24時間なんでも揃い、スマホを持てば世界中の情報にアクセスできる。
見た目だけ切り取れば、「すごい国になったな」と思います。
でも、SNSを5分スクロールしてみてください。
そこに広がっている景色は、なんとも言えない気持ちにさせてくれます。
匿名アカウント。アイコンはアニメのキャラか、風景写真。
その後ろに隠れながら、人が傷つくような言葉を平然と投げつける。
「どうせバレないから」「誰も見てないから」
そう思った瞬間に出てくる言葉が、その人の「本性」です。
人間性というのは、誰も見ていない時にこそ現れる——なんて言葉がありますが、SNSはまさにその「誰も見ていない感覚」を錯覚させる装置として、見事に機能してしまっています。
顔を見せて、名前を出して、それでも同じことが言えますか?
おそらく、ほとんどの人は言えない。
もうひとつ、気になることがあります。
「〇〇についてまとめてください」 「〇〇ってどういう意味ですか」 「〇〇を無料で手に入れる方法は?」
情報を自分で調べる、考える、試行錯誤する——そのプロセスを丸ごとすっ飛ばして、「誰かにくれ」という姿勢。
これ、戦後の「ギブミーチョコレート」と構造が全く同じだと思いませんか。
あの時代は食べ物がなくて「くれ」と言った。今の時代は、考えることをやめて「くれ」と言っている。
物質的な貧しさから、精神的な貧しさへ。形を変えただけで、本質は何も変わっていない気がします。
批判だけして終わるのは簡単です。でも、それこそSNSで誰かを叩いているのと変わらない。
ひとつだけ言えることがあるとしたら——
「名前と顔を出したとき、同じことが言えるか?」
これを自分への問いとして持っておくだけで、だいぶ変わると思います。
情報を「くれ」と言う前に、5分だけ自分で調べてみる。誰かを傷つける言葉を打ち込む前に、「なぜ自分はこれを書きたいのか」と一度立ち止まってみる。
外側がどれだけ発展しても、内側が追いついていなければ意味がない。
見た目だけ大人で中身は?・・・幼稚園児?小学生?
スマホを持ち、新幹線に乗り、世界中の情報にアクセスできる私たちが、まだ「ギブミーチョコレート」の精神構造から抜け出せていないとしたら——それは、かなり恥ずかしい話だと思います。
あなたはどう思いますか?