私たち日本人が海外の人と関わっていく際に知っておくべき根本的な考え方。
性善説を前提に生きてきた私たちが当たり前だと思っている事が海外では通用しません。
例えば、キリスト教では、「人間とはしばしば裏切るものであり、お互いに信じあえないのがあたりまえ」と考えます。
仏教や神道はどちらかというと人間を性善説でとらえますが、キリスト教は性悪説です。
仮にいままで一度も法律違反をしたことがない人も、生まれたばかりの赤ん坊も、すべての人間は例外なく罪を背負っているというのです。
神がつくった最初の人間であるアダムとエヴァ(イブ)は、エデンの園という楽園で何の悩みもなく暮らしていたのですが、ある日、蛇にそそのかされて禁断の木の実を食べてしまいます。
蛇はエヴァが一人のときを狙って声をかけ、「神はあなたがたがその実を食べることで、自分と同じくらい賢くなってしまうことを恐れているんですよ」などともっともらしいことを言う。
そこでエヴァが一口食べてみるとすごくおいしいので、アダムにもすすめて2人で禁を破ってしまった。
2人は神の前で罪のなすり合いをします。
アダムはエヴァのせいにし、エヴァは蛇のせいにする。
そして2人は「木の実を食べたら死ぬ」と言われていたにもかかわらず、死なずにただ楽園を追放される。
この2人は人類の祖先ですから、神の戒めを破ったアダムとエヴァの遺伝子が、その子孫であるすべての人類に引き継がれているとキリスト教では考えます。
そして神に反逆する行いや、神の戒めを破ろうとする心の動きそのものを、罪という言葉で表す。
辞書を引くと、「罪」という言葉には「crime」と「sin」の2種類があることに気づくでしょう。
crimeは外に表れた悪い行いのことですが、sinは外に表れない心の中の動きのことです。
生涯crimeを犯さずにすむ人はいるかもしれませんが、sinを犯さない人は皆無です。
性善説とは、人間の本性は本来善であり、悪い行為は後天的な環境や教育によって生じるという考え方です。
主に中国の儒教思想において重要視され、孟子によって唱えられました。
この考え方は、縄文時代には確立されていたとみられ、争いのない、助け合い、分かち合う文化が育まれてきたのが我が国日本です。
縄文時代は、今より温暖で自然が豊かだったため、人々は狩猟・採集生活をしていました。
竪穴住居に住み、主に木の実や山菜、魚などを食べていたと考えられています。
また、縄文土器や土偶など、豊かな精神文化があったことも特徴です。
なぜ1万年も平和が続いた?
世界中で注目される「縄文時代」ですが、自然のめぐみが豊富で、必要な分だけをとれば良かったから、現代のような貧富の差もなく、大きな争いはなかったようです。
自然に対して謙虚な姿勢でいること。
食べ物などの資源は自然からいただくもの。
必要な分だけをとる。
「足るを知る」ということを大切にしていたようです。
現代社会は、奪い合い、富を独占する人たちが増え、貧富の差がどんどん広がっています。
今一度、原点回帰する必要があるのかもしれません。