今回は、歴史学者などによって未だに意見が割れる鎖国について掘り下げていこうと思います。
実はこの鎖国から明治維新を理解することで、現在の世界における支配構造が分かってきます。
この大切な、我が国の分岐点を学校教育ではしっかりと扱っていませんので、戦後の自虐史観の強い歴史教育に対して拒絶反応を示す人たちが多いのかも知れません。
今回掘り下げる「鎖国」とは、1639年に完成した貿易体制の事で、この鎖国のせいで日本は文明が遅れることになったと語る学者が多く存在します。
しかし、当時はヨーロッパの情報はオランダを通して伝わっていましたし、「四つの口」といって、中国・オランダを中心とする「長崎」、朝鮮に対する「対馬」、琉球に対する「薩摩」、アイヌに対する「松前」では、異民族との交流、貿易は行われていました。
では、なぜ鎖国という体制をとったのでしょうか?
そのカギを握る人物が、フランシスコ・ザビエルです。
1549年にフランシスコ・ザビエルが薩摩に到着して以降、布教を開始したことで九州地方を中心にキリスト教が爆発的に広まっていくようになりました。
当初は幕府も、織田信長もキリスト教を容認することによって南蛮貿易を円滑に進められるという理由から規制はしていなかったのですが、時代が秀吉の頃になると日本におけるキリスト教の認識ががらりと変わります。
余りにもキリスト教徒が増えすぎて、1587年にバテレン追放令を発令。
1596年、秀吉宛に、サン=フェリベ号事件について「スペインはキリスト教を通じてメキシコやフィリピンを支配している」
という書簡が届くと、秀吉は大激怒。
キリスト教を認めると、ヨーロッパの国に侵攻を受ける可能性が高いという認識が高まることになります。
そもそも、フランシスコ・ザビエルは何をしに日本へ来たのか?
キリスト教の布教活動は表向きで、裏では奴隷取引や武器の売買を行っていました。
また、不正に権益を得た金鉱山から「金」を大量に持ち出したりもしています。
この、ザビエルは、カトリック教会のイエズス会創設メンバーの一人で、教皇に絶対服従する実戦部隊の一員でした。
当時のポルトガル国王は、宣教師たちに援助の金を渡す代わりに、新世界を植民地化する手助けをさせるために働かせていました。
ザビエルが日本に到着してからは、スペイン船やポルトガル船が頻繁に来航するようになります。
この頃、マルコ・ポーロの著書『東方見聞録』により、日本は、黄金の国・ジパングと呼ばれるようになっていました。
「黄金の国・ジパング」からも分かる通り、当時の西洋諸国は、「日本を侵略して、黄金を奪おうとしていたのではないのか?」と言われています。
というのも、スペインやポルトガルの侵略・虐殺行為は、南米やアメリカ大陸で示されていて、1526年には、大いなる財宝の可能性に満ちた富裕な土地、「インカ帝国」の領土へと達しました。
その後、インカ帝国に内乱を起こさせ、さらには、宗教を無理やりにキリスト教へと改宗させて人心掌握をはかり、金品財産を略奪したりとやりたい放題!
1533年、スペインのピサロによって滅ぼされました。
まさに、これと同じことを日本にも仕掛けようとしていたのです。
我が国では、キリスト教を強要してくるスペインやポルトガルを疎ましく感じ始め、1612年、江戸幕府はキリスト教の信仰を禁止します。
その後、1637年にキリスト教徒が結びついて起こった一大一揆である島原の乱が勃発。
インカ帝国を滅ぼした時と同様に、内乱を起こさせたのです。
この島原の乱のような暴動が、キリスト教を放置していると頻発するようになると感じた江戸幕府は、鎖国体制に踏み切ることになりました。
この流れをしっかりと理解すると、豊臣秀吉や徳川家康といった権力者たちは、キリスト教の布教による危険性を、十分に理解していた故に、禁止をしたのが実状なのです。
鎖国体制に踏み切っていなかったら最悪の場合、スペインかポルトガルの植民地だったかも知れません。
イエズス会の文書館には、ある極秘文書が所蔵されていると言われています。
公開された文書には、「イエズス会の宣教師たちは、自国の軍隊を日本に上陸させ、一方で日本のキリシタン大名たちに反乱を起こさせて、一挙に植民地化を完成させる」という計画だったと記されています。
・・・もしかすると、織田信長の暗殺を企てた「本能寺の変」もイエズス会が仕組んだのではないかと囁かれています。
鎖国が完全に終わったのは江戸幕府がアメリカとの間で結ばれた日米修好通商条約の締結年である1858年。
つまり219年間も日本は鎖国体制を維持していたのです。
皆さんは、鎖国についてどう思いましたか?