今回は、靖国神社について掘り下げようと思います。
この神社での参拝をめぐっては中国と韓国が強く反発してくるのですが、何故でしょうか?
靖国神社は、明治2年(1869年)6月29日に明治天皇の思し召しによって招魂社が建てられ、明治12年(1879年)6月4日に、社号が「靖國神社」と改められることになります。
この神社は、国家のために尊い命を捧げられた人々の御霊を慰め、その事績を永く後世に伝えることを目的に創建された神社です。
創建当時、日本は近代的統一国家として大きく生まれ変わろうとする歴史的大変革(明治維新)の過程にありました。
それ以前の日本は、徳川幕府の政権下にあり、約250年にわたって鎖国政策をとり、海外との交流を厳しく制限していました。
ところが、アメリカや西欧諸国のアジア進出に伴って、日本に対する開国要求が強まると、開国派と鎖国派の対立が激化し、日本の国内は大きな混乱に陥ります。
そして、徳川幕府は政権を天皇に返上し、日本は新たに天皇を中心とする近代的な国づくりに向けて歩み出すことになったのです。
しかし、そうした大変革は、欧米の陰謀により、不幸な戦い(戊辰戦争)を生み、近代国家建設のために尽力した多くの同士の尊い命が失われる結果となりました。
そこで明治天皇は明治2年6月、国家のために一命を捧げられたこれらの人々の名を後世に伝え、その御霊を慰めるために、東京九段のこの地に「招魂社」を創建されたのです。
明治天皇が命名された「靖國」という社号は、「国を靖(安)んずる」という意味で、靖國神社には「祖国を平安にする」「平和な国家を建設する」という願いが込められています。
靖國神社には、戊辰戦争やその後に起こった佐賀の乱、西南戦争といった国内の戦いで、近代日本の出発点となった明治維新の大事業遂行のために命を落とされた方々をはじめ、明治維新のさきがけとなって命を落とされた、坂本龍馬、吉田松陰、高杉晋作、橋本左内といった歴史的に著名な幕末の志士達、さらには日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、満洲事変、支那事変、大東亜戦争(第二次世界大戦)などの対外事変や戦争に際して、国家防衛のためにひたすら「国安かれ」の一念のもと、尊い生命を捧げられた方々の神霊が祀られており、その数は246万6千余柱に及びます。
その中には、軍人ばかりでなく、戦場で救護のために活躍した従軍看護婦や女学生、学徒動員中に軍需工場で亡くなられた学徒など、軍属、文官、民間の方々も数多く含まれており、その当時、日本人として戦い亡くなった台湾及び朝鮮半島出身者や、シベリア抑留中に死亡した軍人、軍属、大東亜戦争終結時にいわゆる戦争犯罪人として処刑された方々なども同様に祀られています。
このように多くの方々の神霊が、身分、勲功、男女の区別なく、祖国に殉じられた尊い神霊(靖國の大神)として一律平等に祀られているのは、靖國神社の目的が「国家のために一命を捧げられた方々の霊を慰め、その事績を後世に伝えること」にあるからです。
つまり、靖國神社に祀られている246万6千余柱の神霊は、「祖国を守るという公務に起因して亡くなられた方々の神霊」であるという一点において共通しています。
現在の私達がこうして生きていられるのもこの方たちの存在があったからです。
にも拘らず国のトップである首相が、他国の動きを気にしながら参拝するかどうかを決めるなんてどうかしているのです。
自民党の歴代首相は、佐藤栄作氏の代から毎年途切れることなく参拝していましたが、いわゆるA級戦犯と呼ばれる方々が合祀された、1978年10月17日以降に朝日新聞をはじめとする左派メディアが騒ぎ始めます。
ただし、歴代首相は終戦記念日にも参拝をしていますが、海外からの批判はありませんでした。
ここから、日本を貶める「朝日新聞」が社をあげたネガティブキャンペーンを打ち出します。
朝日新聞は「日本的愛国心を問題視」などと、「反靖国」を全面に出した記事を掲載。
その後、社会党の田辺誠氏らが訪中し、「中曽根内閣が軍事大国を目指す危険な動きを強めている」と中国政府首脳に伝えたところ、中国側は初めて中曽根首相の靖国参拝を非難したのです。
1986年以降、中曽根首相は中国に配慮する形で参拝を取りやめてしまい、中国はこの結果に味を占め、その後の外交カード化されてしまうことになったのです。
そして、それを見ていた韓国も中国に同調することになります。
この中曽根政権が、中国と韓国に対する弱腰外交の元凶だったのかも知れません。
六四天安門事件後に世界中から中国に対して制裁を加える中で、中曽根政権は、中国を救ってしまいました。
そればかりか、韓国をも付け上がらせてきたのです。
中国と韓国は無視しながら、この時期に靖国神社の事を思い返す機会にして欲しいと思います。
「靖国で会おう」と言い合い散っていった方たちの魂に報いるために
安倍首相には堂々と参拝してほしいと願います。