日本が戦争への道を選択するように仕向けられていたのを知っていますか?
戦後の教育やメディアなどの洗脳により、「自虐史観」が身についてしまっている人たちが多く存在します。
しかし、事実をたどっていくと欧米から日本がいかに追い込まれていたのかを知ることができます。
当時、戦争反対の空気が流れていたアメリカで、戦争をするために「悪人」を作る必要がありました。
アメリカ国民が戦争に賛成するほどインパクトが強い出来事が必要だったのです。
開戦前夜の昭和16年11月26日アメリカ国務長官 コーデル・ハルが日本政府に対して通告してきた文書が「ハル・ノート」です。
当時日本はアメリカ・イギリス・支那・オランダによる対日経済封鎖により石油・ゴム・といった資源のほとんどを供給停止されていた為に南方進出を真剣に考えていました。
東南アジアの国々はほとんど欧米の植民地で、その国々を独立させ対等貿易を行えば日本に活き残る道はあると考えていました。
その為にはアジアから欧米の植民地支配を排除せねばならないが欧米と開戦できる国力は無い状況。
そんな状況下にありながらも日本は日米開戦を回避すべくぎりぎりの条件を提示して日米交渉の妥結を願っていました。
1, 日支(日本と支那)に和平が成立した暁には支那に展開している日本軍を2年以内に撤兵させる。
2, シナ事変(日中戦争)が解決した暁には「仏印」(フランス領インドシナ)に駐留している兵を撤兵させる。
3, 通商無差別待遇(自由貿易)が全世界に適用されるなら太平洋全域とシナに対してもこれを認める。
4,日独伊三国同盟への干渉は認めない
と言う内容であり更に「甲案」での交渉決裂に備えて日米戦争勃発を未然に防ぐ為の暫定協定案として「乙案」も用意してありました。
1, 欄印(オランダ領インド=現インドネシア)での物資獲得が保障されアメリカが在米日本資産の凍結を解除し石油の対日供給を約束した暁には南部仏印から撤兵する
2, 更にシナ事変が解決した暁には仏印全土かた撤兵する。
要するに日本に対する経済封鎖が解除され石油などの資源が供給されれば南方に進出する必要性は無くなります。
それと引き換えに日本も全面撤退に応じるという内容です。
この事については駐日大使ロバート・クレーギーが帰国後政府に提出した報告書で「日本にとって最大の問題は南方進出では無く耐え難くなりゆく経済封鎖を取り除く事だった。」と書かれていて日本の南方進出が「領土的野心」等では無かった事を証明しています。東京裁判でアメリカ人のブレークニー氏も「日本の真に重大な譲歩は甲案であり、甲案において日本の譲歩は極限に達した。」と言っています。日本側は対米交渉においてこれ以上は応じれない譲歩を示したと言う事です。
しかしそれに対しアメリカは11月7日に「甲案」、11月20日に「乙案」をも拒絶し11月26日に日本が到底受け入れる事の出来ない「ハルノート」が提出されました。
ハルノートは以下の文書です。
1, 日本軍の支那、仏印からの無条件撤退
2, 支那における重慶政府(蒋介石政権)以外の政府、政権の否定(日本が支援する南京国民政府の否定
3, 日独伊三国同盟の死文化(同盟を一方的に解消)
日本に対し大陸における権益を全て放棄し明治維新前の日本に戻れと言う事です。
江戸時代アメリカに武力で開国を強制的にせまられて以来欧米列強に揉まれながらも日本は血の滲む努力の末やっと対等になりつつあるところで「全てを放棄しろ」との事・・・。
こんな訳の解からぬ条件を突き付けながらも経済封鎖の解除には一言も触れて無い所などはさすがは「詐欺師国家」アメリカ。
「日本は生存権を賭けて日米開戦の道を選択した。」、というより開戦という選択しかなかったというのが真実です。
資源・物資・大陸での正当な権益・アメリカにある日本の資産・これらを放棄しろという事は「死ね」と言うのに等しい事です。
「アメリカが日本に送ったのと同一の文書を他国に送れば非力なモナコ公国やルクセンブルク公国でさえ必ずアメリカに対して武力をもって立ちあがっただろう。」
これは東京裁判でのパール判事の言葉です。
未だにアメリカはこの「ハル・ノート」のような方法を使っています。
最初から交渉するつもりはなく、自分達が正義だと思わせるようにメディアを使って誘導、そして戦争を正当化します。
同じ事を繰り返していますので客観的に見ると分かりやすいと思います。
日本を現在のテロリストのように印象付け、世論を動かしていった経緯が当時の新聞記事などで残っています。