「神道」という日本人の無意識深く流れる信仰(宗教というよりも)では、とにかく「清浄」であることが尊ばれます。
罪や穢れを祓い、「清浄」であり続け、自然を尊ぶ。感染症(伝染病・疫病)対策には最も適した信仰ではないでしょうか。
「自己と他者とは違うことを知ることが知恵であり、その違いを認め合うことは叡智である。」
吉川竜実さんは、伊勢神宮の神宮禰宜でありながら、博士号(文学)も持つ学者・研究者でもあります。
神宮徴古館・農業館館長、式年遷宮記念せんぐう館館長なども務め、伊勢神宮では世界中の要人たちの案内役もされています。
神道では、人はそのままでパーファクト、完璧な存在であるととらえる。
神と人とは双方向で、カミサマに感謝と祝福を捧げることで、人は「ひらめき」や「直感」を受け取る。
それに従って行動することで夢や願いが叶う。
これが神道での神と人との関係性。神道での神さまは、やさしい「おじいちゃん、おばあちゃん」のような存在が近い。
神道では、「今、この瞬間こそが、理想の世界だ」(「神代在今(かみよいまにあり)」)と考える。
御成敗式目(貞永式目)の第1条「神は人の敬いによりて威を増し、人は神の徳に寄りて運を添ふ」 バチを恐れるのではなく、感謝をささげた方が、「得(徳)」だと考える。
伊勢神宮の五十鈴川の流れの中には、「農林水産業」すべての営みがある。
伊勢神宮では年間1600の神事が行なわれている。
春に豊作を祈る記念祭。 10月は新米を天照大神に感謝する神嘗祭。
自分たちが汗水たらして得たものでなければ、神祭りをしてはいけない、とされる。
なぜなら、農林水産業の技は、神々から授かられたものであり、感謝を込めて神にささげてきたから。
日本人は無宗教ではなく、あらゆる信仰を受け入れる。「重層信仰」であり、日本の「kami」と西洋の「God」では考え方が違う。
古来、神は山(天を含む)にいて、季節に応じて里に降りてきて人の営みに力を与えてくれる、という信仰があった。だからこそ、集落に「山宮」と「里宮」があった。
神さまを里に迎える際に行うのが春祭り、祈念祭。
再度神さまをお神輿に載せて山宮へ送り、次の春が来るまで、山で静かに霊力を高めていただく。
イザナギノミコトが水中で罪穢れを禊ぎ祓うと、体から悪神である禍津日神(まがつひのかみ)(八十禍津日神(やそまがつひのかみ)と大禍津日神(おほまがつひのかみ)の二柱)が生まれる。
それと同時に、悪神を正す直毘神(なおびのかみ)が生まれる
神道の基本は、罪や穢れを祓い清めることにある。
「禊ぎ・祓い」は、心身の異常な状態を本来の正常な状態に戻す儀礼。
あるべき姿ではなくなった「異常な状態」を罪や穢れと呼び、「お祓い」や「お清め」を通して元の姿に戻す。
正常な「ゼロ」の状態に戻ることで、「直感」や「ひらめき」が降りてくる。
「気づき」とは、ゼロ(虚・空)のエアポケットのような祓われた空間に訪れる。
直感やひらめきは、「一瞬にして物事の本質を見極めたり、正解を導き出したりできる能力」
なぜ日本の神々が働くかといえば、労働が神様にとっての罰や苦痛ではなく、神聖なもので喜びでもあるから。
働くことを喜びとし、尊いものだと考えた神々の意向とおりに生きていく姿そのもの(「祈る」=「い・宣(の)る」)。
自然と共に農業、漁業、林業を営み姿そのもの。
生命を循環させ、伝統を守る古代からの知恵がある。
「鳥総(とぶさ)立て」という、大木を伐採した後の切り株に割れ目をいれ、その木の梢を一枝挿す、という樵(きこり)の風習がある。
根本と梢の中間部分を人間が使わせていただくことに感謝しつつ、残りは神にお返しする。
切り株が腐って養分となることで、挿した小枝が育ち、再び木が育つことを願う。 式年遷宮の御用材の伐採では、必ず「鳥総(とぶさ)立て」が行われるのも、生命を循環させる伝統。
島国の土壌で与えられた環境を受け入れ、身の丈にあった暮らしをする「足るを知る」国民性が育まれた。
神社は常に村の中心で、共有地としてコミュニティーの要となった。鎮守の森は守護の象徴で、精神的なよりどころ。
神道には、先に笑って祝うことで望む現実を引き寄せる「予祝(よしゅく)」という考え方がある。
笑顔で喜ぶ行為を先取りする。
そして、神道の基本は、「自分自身の現実を、絶対的に肯定する」こと。
過去も未来も「今この瞬間」にすべて畳み込まれている。未来は確定しておらず、今のあり方でどのようにも変わっていく。
マイナスだと思えることが起きても、それをプラスに転じる何かが「今」という瞬間に含まれていると気づく。