ラダ・ビノード・パール
インドの法学者、裁判官、コルカタ大学教授、国際連合国際法委員長を歴任。
日本では主に、極東国際軍事裁判(東京裁判)において判事を務め、被告人全員の無罪を主張した「意見書」(通称「パール判決書」)で知られる。
東京裁判以降、国際連合国際法委員長や仲裁裁判所裁判官として国際法に関与した人物。
1952年11月6日、博士は広島高裁における歓迎レセプションに臨まれて、「子孫のため歴史を明確にせよ」と次のように述べられました。
「1950年のイギリスの国際情報調査局の発表によると、『東京裁判の判決は結論だけで理由も証拠もない』と書いてある。
ニュルンベルクにおいては、裁判が終わって三か月目に裁判の全貌を明らかにし、判決理由とその内容を発表した。
しかるに東京裁判は、判決が終わって4年になるのにその発表がない。
他の判事は全部有罪と判定し、わたくし一人が無罪と判定した。
わたくしはその無罪の理由と証拠を微細に説明した。
しかるに他の判事らは、有罪の理由も証拠も何ら明確にしていない。
おそらく明確にできないのではないか。
だから東京裁判の判決の全貌はいまだに発表されていない。
これでは感情によって裁いたといわれても何ら抗弁できまい。」
このように述べた後、博士はいちだんと語気を強めて、
「要するに彼等(欧米)は、日本が侵略戦争を行ったということを歴史にとどめることによって自らのアジア侵略の正当性を誇示すると同時に、日本の過去18年間のすべてを罪悪であると烙印し罪の意識を日本人の心に植えつけることが目的であったに違いがない。
東京裁判の全貌が明らかにされぬ以上、後世の史家はいずれが真なりや迷うであろう。
歴史を明確にする時が来た。
そのためには東京裁判の全貌が明らかにされなくてはならぬ。
・・・これが諸君の子孫に負うところの義務である。
「わたしは1928年から45年までの18年間(東京裁判の審議期間)の歴史を2年8カ月かかって調べた。
各方面の貴重な資料を集めて研究した。
この中にはおそらく日本人の知らなかった問題もある。
それをわたくしは判決文の中に綴った。
このわたくしの歴史を読めば、欧米こそ憎むべきアジア侵略の張本人であることがわかるはずだ。
しかるに日本の多くの知識人は、ほとんどそれを読んでいない。
そして自分らの子弟に
『日本は国際犯罪を犯したのだ』
『日本は侵略の暴挙を敢えてしたのだ』
と教えている。
満州事変から大東亜戦争勃発にいたる事実の歴史を、どうかわたくしの判決文を通して充分研究していただきたい。
日本の子弟が歪められた罪悪感を背負って卑屈・頽廃に流されてゆくのを、わたくしは見過ごして平然たるわけにはゆかない。
彼らの戦時宣伝の偽瞞を払拭せよ。
誤れた歴史は書きかえられねばならない。」
パール博士は東京弁護士会においても多数の法律家を前にして講演され、極東国際軍事裁判を根本的に否定している。
それは戦勝国が復讐の欲望を満足させるために国際法を無視し、司法と立法を混合してマッカーサーが法を制定し、法の不遡及まで犯した一方的な軍事裁判だったからである。
ここでも博士は次のように述べている。
「日本人はこの裁判の正体を正しく批判し、彼らの戦時謀略にごまかされてはならぬ。
日本が過去の戦争において国際法上の罪を犯したという錯覚におちいることは、民族自尊の精神を失うものである。
自尊心と自国の名誉と誇りを失った民族は、強大国に迎合する卑屈なる植民地民族に転落する。
日本よ!日本人は連合国から与えられた《戦犯》の観念を頭から一掃せよ。・・・」
と、博士は繰り返し強調された。
東京裁判判決は、六人組の多数判決で決定された。
ウエッブ裁判長・ オーストラリア・・・・六人組からのけ者扱いにされ、量刑について別の意見書を出している。
レーリング判事・オランダ ・・・・「廣田弘毅元首相は無罪、他の死刑も減刑せよ。ドイツのナチスの処刑に比して重すぎる」。
ベルナール判事・フランス・・・・ 「この裁判は法の適用および法手続きにおいてもあやまりがある。とし、「11人の判事が一堂に集まって協議したことは一度もない」と内部告発までしている。
ハラニーヨ判事・フィリピン・・・・量刑が軽すぎるとしている。
パール判事・インド・・・・全員無罪、無罪というよりこの裁判は裁判にあらず「復讐の儀式に過ぎない」として根底から否定する意見書である。
ザリヤノフ判事・ソ連
梅汝判事・中国
※オーストラリアのウエッブ判事とフィリピンのハラニーヨ判事は、法廷にもち出された事件に前もって関係していた判事で不適格。
必要な言葉すなわち協定用語である英語と日本語がわからないソ連のザリヤノフ判事とフランスのベルナール判事。
また、本来裁判官でない中国の梅汝判事の五名の判事は不適格判事であった。
国際法で学位をとった判事はパール博士一人のみである。