日本は、1895年4月に締結された下関条約によって、遼東半島の権利を手に入れました。
しかし、その頃南下政策を進めていたロシアは、遼東半島を領有しようと目をつけていたのです。
そこで、ロシアはドイツとフランスに声をかけ、一緒に日本に対して圧力をかけてきました。これを三国干渉とよんでいます。
パリ・ロスチャイルド家、ロシア支援
パリ家当主アルフォンスは1883年に財政困窮に陥ったロシア政府の公債発行に協力してやっており、その見返りとしてバクー油田の中でも最大級のバニト油田をロシア政府より与えられた。
アルフォンスは1914年にはロイヤル・ダッチ・シェル石油に油田を売却し、同社の大株主に転じました。ロシア支援と書きましたが、無償の支援ではなく法外な金利と税収・煙草収益担保という形の貸付です。
インドや東欧の国々などには、イギリスの植民地やイギリスが影響力を持っている土地が多く、それらはロシアの南にありました。
イギリスは何とかしてロシアの南下を止めたかったという思惑から日本を支援。
日本も、満州や朝鮮の地域へのロシアの南下に危機感を抱いていました。
なぜロシアが南下政策をとっていたかというと、不凍港(一年中凍らない港)がほしかったからです。
ロシアは不凍港を持っていなかったので、一年のうち三ヶ月から四ヶ月は経済活動や軍事活動を制限せざるを得なくなり、国力的にも遅れをとっていました。
まだその頃は、飛行機が発明されていなかったので、船が最良の輸送手段で、また、軍事手段でもあり、経済手段だったのです。
その遅れを取り戻すためにも、ロシアは何としても不凍港を手に入れたいと思っていたため、南下政策をすすめていました。
イギリスがロシアではなく、日清戦争や日露戦争で、日本を支援する側にまわっていたかというと、そのあたりの事情が大きかったようです。
日本はロシアと戦える状態ではありませんでしたが、「戦わなければ植民地」という選択肢しかありませんので必死に動きます。
ロンドン・ロスチャイルド家、日本支援
ロスチャイルド家はユダヤ人迫害を推進するロシア帝国とは敵対的立場を取りました。
1854年のクリミア戦争の際にはライオネル・ド・ロスチャイルドはイギリス政府の対ロシア戦争を金銭面から支援すべく、1600万ポンドもの英国公債を公募。
1904年の日露戦争では、初代ロスチャイルド男爵ナサニエル・ロスチャイルドがニューヨークのユダヤ人銀行家ジェイコブ・シフから「日本の勝利がユダヤ人同胞を迫害するツァーリ体制打倒のきっかけとなる」との誘いを受けたのを機に日本の最初の戦時公債の起債の下請けを行いました。
3回目と4回目の起債ではロンドンとパリのロスチャイルド家がそろって発行団に。
・・・教科書では、日本の「太平洋艦隊がバルチック艦隊を破り大勝利」とありますが、戦後は賠償金を取ることができずに大きな借金を抱え続けることになります。
アメリカの仲介で和平交渉をしましたが、米露の裏取引があり、日本は賠償金を取れませんでした。
外貨公債が丸々、戦勝国である日本の国民に被せられる結果と成ったのです。
国の一般・特別会計によると日露戦争の戦費総額は18億2629万円とされます。
現在の価値にすると4兆円ほどにもなります。
日露戦争開戦前年の1903年(明治36年)の一般会計歳入は2.6億円であったことから、いかに巨額の資金調達であったかが分かります。
この戦争で得をしたのはロスチャイルド家を中心とする銀行家たちで、日本は借金漬けとなっていく運命をたどります。
戦争する両方に影で資金援助して、どちらからも富を得る形を取り常に莫大な利益を得ているのが銀行家たちの正体です。
現在もテロリストたちの資金援助をしていたり、武器や麻薬などでも利益を得ていると囁かれています。