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失ってはいけない郷土の歴史のこと ~ねずさんの学ぼう日本史


 
今回はまた、日本の心をつたえる会代表である小名木善行(おなぎぜんこう)氏に学ばせていただこうと思います。

近くの八幡神社に、乃木大将の「忠魂碑」があります。

高さ3メートルくらいの大きな石碑です。

表には、「忠魂碑・希典書」と書かれ、後ろには、地元から日露戦争に出征して亡くなった英霊の名が刻まれています。

 

この「忠魂碑」は、一時、地面にまるごと埋められていました。

それは昭和20年、日本が戦争に敗れ、GHQがやってきて、我が国の軍神像などを片っ端からつぶしていったときのことです。

昭和20年といえば、1945年です。

日露戦争が1905年です。

たった40年しか経っていません。

つまり終戦当時、日露戦争に従軍し、まさに石碑の後ろに名前が刻まれてた兵隊さんの、父母や兄弟姉妹が、まだ存命だった時代です。

いくら日本が敗れたとはいえ、身内の名前まで消されてはかなわないと、近所のおじさんたちが集まって、石碑を土に埋めました。

 

そして、サンフランシスコ講和条約の締結によって、我が国が主権を回復すると決まったとき、また近所のおじさんたちが集まって、この碑を掘り起こしました。

昭和26年(1951)の夏のことです。

サンフランシスコ講和条約の発効は、翌年4月です。

けれど、そんなものを待ってなどいられなかったのです。

だから、決まったときに、みんなですぐに掘り起こしました。

大好きだった兄、勇敢で明るくてしっかり者だった息子が、名誉の戦死を遂げたのです。

その死を悼んで、乃木将軍が、大きな碑を建ててくださったのです。

 

その碑は、地域のみんなで大事に大事に、地元の神社に建立されていたのです。

だから、日露戦争の後、毎年、何か用があって神社に行くたびに、この碑の前で、お父ちゃんに手を合わせていました。

その碑が、日本が戦争に負けたときに、地面に埋められていたのです。

ようやく6年経って、その碑が掘り起こされたとき、もちろん重機なんかありませんから、ぜんぶ手作業です。

近所のおじさんたちが集まって、みんなでエンコラって掘り起こし、碑をきれいに洗って、再び社内に建てました。

神主さんが、祝詞をあげてくれました。

 

兄を亡くしたおばあちゃんは、そのとき地面にひざまづいて、両手を合わせて泣いていたそうです。

もらい泣きで、その娘さんも一緒に涙を流していました。

汗とドロで真っ黒になっていたおじさんたちも、

そんな姿に涙をこらえきれず、あちこちで嗚咽がひびいたそうです。

おばあちゃんには、その碑が亡くなられた兄の姿に見えたのかもしれません。

 

・・・・・・続きは動画でご覧ください。

 

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