波乱に満ちた多くのエピソードが残る人で、家族や多くの人達に支えられ生かされた人でもあります。
長州藩脱藩や黒船密航など家族はいつもひやひやしていたと思います・・・。
文政13年(1830年)8月4日、萩城下松本村で長州藩士・杉百合之助の次男として生まれる。
天保5年(1834年)、叔父で山鹿流兵学師範である吉田大助の養子となり、天保6年(1835年)に大助が死亡したため、叔父の玉木文之進が開いた松下村塾で指導を受けました。
11歳の時、長州藩主・毛利慶親への御前講義の出来栄えが見事であったことによりその才能が認められました。
松陰は、子ども時代、父や兄の梅太郎とともに畑仕事に出かけ、草取りや耕作をしながら四書五経の素読、「文政十年の詔」、「神国由来」、その他頼山陽の詩などを、父が音読し、後から兄弟が復唱しました。
その後、アヘン戦争で清が西洋列強に大敗したことを知って山鹿流兵学が時代遅れになったことを痛感すると、西洋兵学を学ぶために嘉永3年(1850年)九州に遊学。ついで、江戸に出て佐久間象山に師事。
嘉永5年(1852年)、友人である宮部鼎蔵らと東北旅行を計画するのですが、長州藩からの過書手形(通行手形)の発行を待たず脱藩。
この東北遊学では、水戸で会沢正志斎と面会、会津で日新館の見学を始め、東北の鉱山の様子等を見学。
秋田では相馬大作事件の真相を地区住民に尋ね、津軽では津軽海峡を通行するという外国船を見学しようとしました。
江戸に帰着後、罪に問われて士籍剥奪・世禄没収の処分を受けました。
嘉永6年(1853年)、マシュー・ペリーが浦賀に来航すると、師の佐久間象山と黒船を視察し、西洋の先進文明に心を打たれ、外国留学を決意。
同郷で足軽の金子重之輔と長崎に寄港していたプチャーチンのロシア軍艦に乗り込もうとするが、ヨーロッパで勃発したクリミア戦争にイギリスが参戦した事から同艦が予定を繰り上げて出航した為に失敗。
嘉永7年(1854年)にペリーが日米和親条約締結の為に再航した際には吉田松陰は、足軽の金子重之輔と二人で、海岸につないであった漁民の小舟を盗んで旗艦ポーハタン号に漕ぎ寄せ、乗船。
しかし、渡航は拒否されました。
二人が船上にいる間に、二人の荷物を乗せたまま小舟は流されたため、しかたなく、吉田松陰は幕府に自首。
また、吉田のみならずこの密航事件に連座して佐久間象山も投獄されています。
安政2年(1855年)に出獄を許され、杉家に幽閉の処分となります。
安政4年(1857年)に叔父が主宰していた松下村塾の名を引き継ぎ、杉家の敷地に松下村塾を開塾。
この松下村塾において松陰は久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋、吉田稔麿、入江九一、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義などの面々を教育していきました。
松陰の松下村塾は一方的に師匠が弟子に教えるものではなく、松陰が弟子と一緒に意見を交わしたり、文学だけでなく登山や水泳なども行なうという「生きた学問」だったといわれています。
安政5年(1858年)幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結したことを知って激怒し、討幕を表明して老中首座である間部詮勝の暗殺を計画。
しかし、弟子の久坂玄瑞、高杉晋作や桂小五郎(木戸孝允)らは反対して同調しなかったため、計画は頓挫しました。
さらに、松陰は幕府が日本最大の障害になっていると批判し、倒幕をも持ちかけています。
結果、松陰は捕らえられ、野山獄に幽囚。
安政6年(1859年)10月27日、安政の大獄に連座し江戸に檻送され、評定所で取り調べの結果、斬首刑に処されました。享年30(満29歳没)。