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マンハッタン計画と2人の天才科学者、そして、ルーズベルトの謎の死と原爆投下命令


 

今回は、ルーズベルト大統領の謎の死とマンハッタン計画について掘り下げます。

ソ連のコミンテルンに操られ、日本を戦争に導いた人物という事で知られるフランクリン・ルーズベルトですが、アメリカでは、大統領選で4回の当選を誇る人物としても知られています。

1945年3月に行われたヤルタ会談の二か月後に脳溢血で突然死亡したとされましたが、死の直後からこの公式発表には疑義が呈せられ、現在もルーズベルトの死の真相が一種のタブーとなり、死の真相についての議論は続いています。

 

ここからは、筋が通っていると思われる一つの説について話します。

第二次世界大戦直前の1939年、ニールス・ボーアという物理学者が原子核分裂予想を発表しました。

これによって世界中の物理学者が「原爆は製造可能である」ことに気付いてしまいます。

いくつかの国が核開発に乗り出し、そのなかにナチス・ドイツが含まれていました。

この時、アメリカに亡命したユダヤ人物理学者レオ・シラードは、ナチスが世界に先駆けて核兵器を保有することを恐れて、当時のアメリカ大統領・ルーズベルトに核開発を推進するよう提言する手紙を送ったのです。

その際に手紙の権威付けの為に、同じ亡命ユダヤ人として親交のあった、アインシュタインに署名を依頼しました。

アインシュタインと言えば誰もが知る天才物理学者で、「相対性理論」はあまりに有名です。

このアインシュタインの理論を応用したのが原子爆弾です。

アインシュタインは世界でトップクラスの科学者として信頼されていましたので、署名入りの手紙が大統領に届くのは必然でした。

後にこの手紙は「アインシュタイン・シラードの手紙(Einstein-Szilard letter)」と呼ばれています。

ルーズベルトはこの手紙を読み、アメリカでマンハッタン計画がスタートする事になります。

 

この計画には、途方もない予算が注ぎ込まれ、アメリカはナチスよりも早く原爆を完成させることに成功。

そしてしばらくすると、ナチスが降伏することになります。

シラードとアインシュタインは、核が使われずに済んでよかったと胸をなでおろしていたのですが、原爆を日本に投下する計画があることを知ります。

シラードは「日本に原爆を落とすな」というメッセージを伝えるため、アインシュタインに大統領宛ての紹介状を書くよう依頼。

アインシュタインはこれを承諾したのですが、メッセージが大統領に届くことはありませんでした。

1945年4月12日、ルーズベルト大統領が脳溢血で急死したからです。

その後、当時副大統領だったトルーマンが自動的に大統領になり、原爆は広島と長崎に投下されたのです。

ルーズベルトはヤンタ会談の時点で、日本への原爆投下をチャーチルに話していたとされますが、これはナチスが降伏しない場合の威嚇としてのオプションだったという見方があります。

そして、スターリンとは、日本の分割について話し合っていたとされます。

また、戦争の終わらせ方についても話し合われていました。

実は、この会談後から、ナチスは降伏ムードが漂い始めていました。

そこで、ソ連を脅威と考えていた勢力がルーズベルトを暗殺したのではないかと囁かれているのです。

コミンテルンの操り人形だったルーズベルトをそのままにしておくとアメリカも危うくなります。

ルーズベルトの死後、トルーマンが大統領の座につき原爆投下を続けざまに指示したのは、ソ連を威嚇する目的と、ソ連が日本へ侵攻する前に、日本を降伏させる必要があったからだという見方があります。

このように、戦争とは様々な思惑が入り乱れているのです。

 

一方で、ナチスに迫害されてアメリカに亡命したユダヤ人科学者たちは「絶対にナチスより先に原爆を作らなくてはならない」と考えていました。

しかし、それは「ナチスより先に原爆を所有することで、ナチスが原爆を使用するのを抑制できるだろう」と考えたためで、核兵器を使うためではなく、核抑止力のために開発を急いだのです。

しかし、原爆は実際に使用されてしまうことになります・・・

日本で原爆が投下されたと聞いたとき、アインシュタインは「なんということだ」とショックを隠し切れなかったそうです。

アインシュタインは原爆の開発には携わっていません。

ドイツ人で、平和主義者、政治活動家でもあったことから、アインシュタインは安全上のリスクが高すぎると見なされ、マンハッタン計画への参加を許されなかったのです。

その後、アインシュタインは「ドイツが原爆の開発に成功しないと知っていたら、爆弾のために何かをすることはなかっただろう」と語っています。

そして、2005年に公開された手紙で、アインシュタインは日本人の友人に対し、「わたしは日本に対する原爆の使用を常に非難してきたが、わたしはあの運命の決断を阻止するために何もできなかった」と書いています。

 

1955年7月9日バートランド・ラッセル卿と、アインシュタイン博士が中心となり、ロンドンにて当時の第一級の科学者ら11人(マックス・ボルン、ジュリオ・キュリー、湯川秀樹など)の連名で、米ソの水爆実験競争という世界情勢に対して「核兵器廃絶・科学技術の平和利用を訴えた宣言」ラッセル・アインシュタイン宣言を発表しました。

「人類は悲劇的な状況に直面している。水爆による戦争は人類に終末をもたらす可能性がある。

私たち科学者は世界各国政府に対し、核兵器を廃絶し紛争解決のための平和的手段を見いだすよう勧告する」

宣言に署名した1週間後、アインシュタインは76歳の生涯を終えました。

そして、ラッセル・アインシュタイン宣言は、アインシュタインの全人類に向けた遺言状となりました。

アインシュタインの残した言葉で締めくくりたいと思います。

「無限なものがふたつあります。それは宇宙と人間の愚かさ。ただし前者については断言できませんが。」

 

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