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420人の敵国兵を救った日本人:工藤俊作

Shunsaku_Kudo1942年、大東亜戦争(第二次世界大戦)の真っただ中、日本は連合国と戦争状態にあり、インドネシア ジャワ島の北東スラバヤ沖で激しい戦いを繰り広げていました。

工藤が艦長を務める駆逐艦「雷」も参戦。戦況は日本海軍が圧倒的に優勢でした。

イギリスをはじめとする連合国海軍は猛攻撃を受け、フォール少尉が乗る艦エンカウンターは日本軍の戦闘艦に包囲されていました。

砲弾がエンカウンターに命中しエンジンが停止。もはや脱出する以外方法はありません。

イギリス兵全員が救命ボートで脱出、その直後エンカウンターは日本海軍の攻撃によって炎上し海に沈みました。

近くには沈没した他の船の乗組員も含め400名以上が漂流していました。

救命ボートは8隻しかなく全員が乗るには不十分でしたが、オランダ軍が助けてくれると信じていました。

逃げる前に近くにいた味方のオランダ軍の基地に無線でSOS救助要請。

・・・しかし、漂流から20時間経っても助けは来なかった。

誰もが死を覚悟していたその時、フォールの前に現れたのが駆逐艦「雷」だった。

「雷」は乗組員220人の小型軍艦だが、連合軍の船を3隻も撃沈していました。

 

この辺りは前日、日本の輸送船が潜水艦から魚雷攻撃を受け沈没したばかりの危険な海域。

漂流物を発見した工藤は戦闘用意を命令。

潜水艦に注意するよう指示し、漂流物を射程距離に捕らえた。

この時、工藤が見たのはボートに掴まり必死に助けを求める400名のイギリス兵でした。

 

イギリス兵たちは目の前に現れた敵艦を前に死を覚悟した。

しかし、どういうわけか攻撃を仕掛けてこない日本軍。

 

その時、工藤は苦悩していた・・・・。

目の前で必死に助けを求める人(イギリス兵)がいる。

日本軍戦闘艦の艦長という立場でありながら、もしも救助活動中に攻撃を受け、艦が沈没するようなことが起きれば処罰され職を失う。

次の瞬間、工藤が下した決断は「敵兵を救助せよ!」

工藤は武士道の惻隠の情を貫いた。

 

「船を動かすのに必要最低限の人間だけを残し、あとは全員救助に向かえ!」

それは日本海軍史上、極めて異例の命令でした。

自分達も死ぬかもしれないような危険海域でありながら戦闘のための人員を裂いて敵を救う。

自らの命を顧みない捨て身の救助。

日本兵たちは自ら海に飛び込み、体力の限界を迎えていたイギリス兵を救助しました。

自力で上がることができないイギリス兵は体にロープを巻き付けて引き上げ、甲板では油や汚物にまみれているイギリス兵の体を優しく拭き労わる。

自分達にとっても貴重な食料や真水を与えた。

「目の前で救いの手を求めている人間を救う事より大切なことなどない。」

と、さらなる漂流者の救助を指示。

工藤は溺れていた全てのイギリス兵を救助、その数422人。

「諸官は勇敢に戦われた 我々はあなた方を殺めるような事はしない。戦いが終わった今、諸官たちは日本海軍の名誉あるゲストである。」

工藤は武士道の精神をもって弱っているイギリス兵たちを労い、最大限の敬意を払った。

その後、422人のイギリス兵は、翌日にボルネオ島の病院へ引き渡されました。

 

実は、これは第二次世界大戦から21世紀になるまで世に出る事のない知られざる話だった。

フォール少尉は終戦後イギリスに帰国し、1996年に自叙伝を出版。

これにより54年の時を経て、奇跡の物語が世に知られることになったのです。

本の1ページ目には工藤艦長への感謝の念がつづられています。

その後、心臓病を患い自らの命が長くないと悟ったフォールは2003年に来日。

外務省に出迎えられたフォールは半世紀前の救助劇を語り、初めて奇跡の物語は日本に伝えられました。

その時、工藤の消息を誰も知らず、再会を果たす事は叶わなかった。

・・・その5年後、工藤のお墓が判明。

フォール氏は、2008年に再び来日し工藤の墓を参った。

 

工藤俊作

1901年、山形県高畠町に生まれた。
19歳の時、広島県にある江田島の海軍兵学校に入学、そこで後の総理大臣となる鈴木貫太郎校長から「惻隠の情」という言葉を受けた。
戦った戦士たちが戦闘を終えた後、互いの健闘を称え合い 勝者が敗者を労う。
自分より弱い人間を理解し、共感や思いやりが必要という考え方です。
弱き者を助ける精神こそ日本の武士道と教わった。
海軍兵学校を卒業後、海軍少佐に昇進。41歳の時に駆逐艦「雷」の艦長に就任。
武士道を実践するべく工藤は、鉄拳制裁を禁止しました。
鉄拳制裁が横行していた当時の日本海軍において異例の訓示でした。

 

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